『命』の見かた 

『命』の見かた    4月15日分
 
4月中旬なのに、寒い日が続いています。アイスランドでは噴火してヨーロッパは想像できないほど混乱。どうなっているのかしら? どうなるのかしら? と私はすごく不安です。
先日の寒い雪の日に、タクシーに乗りました。運転手は、少し高齢の元気のいい女性。
乗ってしばらくしたら、
「お客さん、話しやすそうなので、ちょっとお話してもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「実は、私、昨日、大泣きしたんです。親が死んでも泣かなかった私が、ちいさなハムスターを死なしてしまって・・・大泣きしたんです」
「ヘエイ、どうなさったんですか」
「私はひとりもんで、家に帰っても誰もいないから、ハムスターを飼ったのよ。でも一日中、誰もいないのだから寂しいだろうと、相棒のちっちゃなメスを買ってきて籠にいれた。ところが、籠のアミが大きくて、するりと抜けてどこかにいっちゃった。家の中にいるのだろうと探したけどいなくて、二日後にごそごそ音がしたのでみたら、ゴキブリホイホイにべったりとくっついていた。かわいそうだと思ってべたべたを取ろうとお湯で吹いたりベンジンで拭いたりしていたら、ふと見たら死んじゃったのよ。何だかかわいそうで、悪くて・・・、切なくて・・・。“ごめんよごめんよ”といいながら大泣きしちゃったのよ」
「親が死んでも泣かなかったのはどうして? それなのにどうしてハムスターの死で泣けたんですか?」
「そりあ、そうでしょう。親は年取って寿命で死ぬのは当たり前。自然の掟だよ。でもハムスターは、まだ寿命じゃなかった。たぶん私がベンジンで拭いたから死んじゃったんだよ。良かれと思ってやったのにねえ。死なしちゃったよ。生きられる命を途中で止めちゃったんだよ。それは悪いことだよ・・・」
「そうですか・・・。そうですね・・・」

『寂しい』ということ
  私は、しみじみと話すのを聞きながら、感慨深い気持ちになりました。どうしてかな? それは、一つは「人間って、寂しいものなんだな」ということを痛感したこと、もう一つは、『命』というもののとらえ方が人それぞれすごく違うんだなあということです。頭ではわかっていることなのかもしれませんが、人生の先輩が正直な気持ちをしみじみとお話しするのを聞くと、染み入ります。
 私の大好きな大脳生理学者の大島清先生が教えてくれました。人間の本能は3つ。食欲・性欲そして群れる欲と。人間は群れたから人間になったと。そしていまどきの人間は群れ方が下手で、群れないで『孤』になっていると。
 そうなのですよね。一人・しゃべる相手がいない・心を使う相手がいないということは、『寂しい』んですよ。『孤』は人間らしく生きられないということなのだそうです。このタクシーの運転手さんは、『孤』からの脱出のだめにハムスターを飼い、そして・・・。何か根源的なことを肌で感じて・・・。
 
『命』の見かた
この方の淡々と話す中の『命』の見かたは、生き物としての人間・動物の生死を達観したような見かただと思いました。そういう意味では多くの人は「死」を感情的に受け止めすぎてはいないかな? などと思いました。「寿命で死ぬのは当たり前」という当たり前のことをきちんと受け止められない人が多いのでは・・・。そうはいうものの、「がん」が発見されても「わかった」と病気も死ぬこともすんなりと、あるいは仕方なくでも受け止める人も、私の周囲では少なくないなあ・・・。
 「生きられる命を止めてはいけないよ」という言葉は、「そうだ!!」とうなづきました。

運転手さんが最後にこういいました。
「お客さんに聞いてもらってよかった。誰にもいえなくて悶々としていたんだけど、聞いてもらって少し気持ちが楽になったよ・・・。でもね、この仕事もあと2ヶ月だけなんです。東京はタクシーが多すぎて収入にならないというので、全体的に数千台減らすことが決まって、70歳以上は有無を言わさず退職だというんですよ。私は74歳だからおしまい。今度は誰に聞いてもらえばいいんだか・・・」

たった10分のタクシーの中でしたが、いろいろ考えさせられました。