イタリア視察雑記6

イタリア視察雑記6             2015年11月15日分

 町の人の受け入れ

 トリエステの山の斜面(膨大な土地)に、精神病院があり、1,200人の患者が入院していた。それをバザーリアたちが鍵だらけで門番がいる門も含めて病院を開放した。そればかりか、病院を閉鎖したのだが、私はずっと疑問に思っていることがあった。それは、町に住む一般市民がよくそれを受け入れたなあということだった。

日本であれば・・
 もし日本であればどうだろうか。精神病院に入院していた患者が1,200人も町に出て隣り合わせでいっしょに暮していくことになるのだ。日本では、真っ先に市民から反対運動が起こるのではないだろうか。
 なぜかといえば、以前、認知症グループホームを開設する時、地域の人に説明会を行ったが、「そんなボケた年寄りばかりの施設を作らないでくれ」「作っても町には出さないで閉じ込めておいてくれ。何をするかわからないから」というような言葉が返ってきた。
 また友人がホームホスピスを作ろうとしたら、地域住民の反対運動にあってしまった。理由は、霊柩車がよく来る地域では土地の値段が下がるからやめてくれということだったという。
 精神障がい者のことをよく理解していないだろう地域住民は、反対運動をするのではないだろうか。

トリエステでは・・・
 今回の視察で、そのことの説明があって、私はやっと納得した。それは、地理上の位置関係と歴史に関係していた。
トリエステは、イタリア半島の付け根のような位置で、西は有名なヴェネチアで、東隣がスロベニア⇒クロアチア、北隣がオーストリアと国境に位置している。人口の10%以上がスロベニア人で言葉もスロベニア語だという。   昔あった精神病院の1,200人の入院患者の約半数はスロベニア人であったし、職員もスロベニアの人が少なくなかったという。
 また、歴史的に現在のイタリアに統合されたのは1954年であり、「第一次世界大戦までは長らくオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあり、その重要都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア王国領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビアとの間で帰属をめぐる紛争が生じ、一時期は国際連合管理下の「トリエステ自由地域」が置かれていた」(ウィキペディアより)と、様々な国の統治下に置かれてきた。
 もともと国境の町で違った人種の人々が住んでいたこと、そして歴史的に様々な国の統治下におかれたことで、「境界」という意識が薄いというか、違うのが当たり前の風潮があったことが関係していたようである。違ったものに対して寛容であり、別な言い方をすれば無関心(いい意味で)であったことが、精神障がい者に対しても寛容だったのだと思うという説明だった。

なるほどなあと思った。