世界の介護事情
世界の介護事情 9月25日分
9月27日(土)に、千住介護福祉専門学校主催の公開講座として、『私が見てきた世界の介護・看護』という内容で、私が講演させていただきました。
1980年に、24歳の時にイギリス・スエーデン・ユーゴスラビラに借金をして視察に出かけたことをきっかけに、日本だけではない高齢社会の対応をそれぞれの国がどう考え、どうしているのか、そしてその真っ只中で中核になって支えていく介護職・看護職は現場でどのように実践しているのかを見てきたこと考えてきたことを多数の写真をもとに話をさせていただきました。
このブログを見て参加してくださった方も多数いらっしゃいました。ご挨拶できなくゆっくりお話をすることができずに申し訳ありませんでした。それにしても、私としてはとてもうれしかったです! 本当にありがとうございました。
悶々としている私
準備が遅くなってぎりぎりに資料と写真のパワーポイントの準備をする私を大いに助けてくださったのは、いつもいつも困ったときに昼夜を問わず助けてくれる仲間です! 『またか・・・』と心の中ではあきれ、迷惑と思いつつも、何だか一緒になっておもしろがって準備してくださいました。この場を借りて“ありがとう! 頼りにしています! これからもよろしく!”
何とか2時間たっぷりと話をさせていただいた私なのですが、実は終わった後の後味が自分としてはよくなかったのです。時間メ一杯に話をしたせいか会場からの声を聞くことができなかったことも要因かもしれません。それは、私の時間配分はうまくなかったわけで申し訳ありませんでした。盛りだくさんすぎたのですね。
また、聞いてくださる方が、要介護で介護を受けながら暮らしている難聴の高齢者の方もいれば、市民団体の方、現場で苦心している介護職・看護職の方、マスコミの方、またそのことをよく研究している方、わたしといっしょに現場を作り上げてきた方々と多様で、誰を見て話せばいいのか、実は迷いながら話していたのです。結局は、『一番理解しにくいであろう要介護で介護を受けている難聴の高齢の方が理解できるように話そう』と自分では決めたのですが、そうすると1つを説明するのに、猛烈な時間がかかるのです。 ・・・いいわけですね・・
それにしても・・・。何か大事なことを伝えることができなかったような気がしてならなかったのです。終わった夜も夢の中にそのことがでてきて熟睡できず、悶々としてしまったのです。
そこで、私が昔学び獲得した『自分自身の心に内を外から静観する』(サイコサイバネーション)という独特の方法によって、心の内を整理・分析し、私なりにわかったのです。
今の世界の介護状況を伝えられなかった・・・
1990年代の世界の在宅ケアの実際を、現場感覚で多数の事例を通してお伝えすることはそれなりにできたような気がするのですが、今の世界の介護・看護事情を伝えることができなかったのです。私が把握していることが正しいのかどうかは別として、私なりに把握している『現在の世界の介護事情』まで伝えることができなかったのです。これが反省の一番の理由です。それを補う発言をしてくださるはずだった、私の長年の指導者であり上司である増子忠道先生の発言の時間を確保することができなかったのです。申し訳ありませんでした。
ですから、この場を借りて少しだけ(さわりだけ)、ここでお伝えさせていただきます。
地球規模で見た介護問題・介護労働市場問題
昨年・今年のフィリピン・インドネシア取材は、EPA(各国間経済協力協定)によって(介護問題ではなく、経済問題で)、東南アジアの人々が日本の看護・介護を担う一歩が始まったことについての相手国側から見た実情のレポートでした。それは想像以上の、というよりは、想像できない現実がありました。このことについてのレポートは、まだ足りないのですが、いくつかにこれから発信しますので、ご覧下さい。(既載「社会保険旬報」社会保険研究所、「りんくる」中央法規出版、これから「シルバー新報」連載、週刊誌「東洋経済」など)
要するに、先進国といわれている国が、それなりの社会保障として高齢者の介護・支援を行う社会システムを作ってきたのですが、自国の看護・介護の専門職だけで担うことができず(看護・介護労働力不足で)、かなりの部分を外国人労働者に依存しているという実態です。
たとえば、スエーデン。「外国人労働者、大いに歓迎です! 違う価値観が共存することが、国を豊かにします」。イギリスは先日厚生労働省の幹部がすこやか福祉会の認知症のグループホームに視察にいらっしゃいましたが、「認知症の人のケアについてはイギリスより日本のほうが進んでいます。イギリスの介護労働は他の国の人をあてにしています。たとえば、ケースワーカーでさえ半数以上が外国人です」。フランス・・・「家庭内の支援は、北西アフリカのモロッコなどの、もと植民地化していた国々の労働者に依存しています」。 ドイツ。「トルコなどの国からの移民問題がずっと続いている。それと介護問題が重なり合っている」
いわゆる先進国は、高齢社会・介護問題でそれなりのシステムを作ってきたが、それを担う人・労働者・専門職がいなくて苦心しているのです。それを専門職としての介護労働者という位置づけではなく、差別的なニュアンスをもった位置づけでシステムに組み込んでいるように見えるのです。カナダ・オーストラリアだって、発展途上国といわれている国からの介護労働者を膨大な数を受け入れることにエネルギーを裂いています。
つまり、受け入れたい側の国はそれなりの覚悟と実情から他国(どちらかというと経済的に貧困な国)からの介護労働力を期待し、それがないとその国の社会保障の実現をできない状況にあるようなのです。
「介護労働を提供する国」の実情
フィリピンは、自国では「社会的介護」の必要性を感じない国なのに、介護学校を1000校も持っている。理由は世界中に必要とされている「介護」を提供する国として。アメリカ・カナダ・オーストラリア・ヨーロッパ・サウジアラビア・イスラエル・台湾など世界中の多数の国の「介護」労働者を派遣している。豊かではない国の事情から外貨稼ぎ・出稼ぎによって家族を・生活・国を護ろうとしている。
インドネシアは、フィリピンとちょっと事情が違う。英語を駆使できないという事情も加味されながら、独自の実情を持っている。日本への看護職・介護職の派遣は政府として始めて。本当にうまくいくのかどうか・・・。日本人の私たちは想像・推測できない実態がある。
世界規模、地球規模でみた『格差』問題と介護問題が微妙に絡み合っている。どうしても、地味な『介護』を貧困な国の労働者が、先進国と言われる国の介護問題を担う役柄を担う構造が見える。そこには、「差別」や「人権意識」の遅れも見える。プロ(専門職)としての『介護』の力を発揮して、どこに住んでいても豊かに生きることを支援しようとする『介護』(私は、ちょっと違った視点で展開したいと思っているが)を実施したいと思うのに、単純にそうはいかない実情。
インドネシアには、介護職は、今のところ必要なし。なのに世界の状況を見て派遣するという。移民局の話では、サウジアラビアやクウエートや台湾に実情に合わせて教育をして人を派遣すると。
世界の経済格差と介護問題が入り交じって
私は、なにが許せないかというと、同じ地球上に生きて暮らして人間同士が、人種や民族や緯度や種々の歴史上のことで、お互いに意識しないで差別している実態が悲しいんです。肌の色や生活習慣が違っていても、それぞれの地球環境の条件・制限の中で一生懸命生きている。別な国の社会保障の担い手になっている現実・・・。
私の中では、解決できない悶々としたものが残るのです。経済協定とはいえ、インドネシア人の介護職・看護職を受け入れる日本人の意識はどうか。どうですか、みなさん。ご自分は? 他人事ではないですよ!
今、地球上で起きている経済的格差問題と、多くは高齢者介護問題を抱える国々とが平等ではない人間同士の関係性を維持している・・・。
こういう状況で本当に外国人(フィリピンやインドネシアの方々)をうけいれていいのだろうか。
心配は尽きないのです。そういうことを会場に集まった皆様にお伝えしなければならにと思いつつ、そうできなかったことをお詫びしつつ、弁解のメッセージになってしまいました。
もっときちんと展開したいところですが、きょうはここまで。
また、お付き合いくださいませ。