大震災・原発事故・いわき

大震災・原発事故・いわき    2月5日分

 大震災から一年が経とうとしている。北は岩手の宮古、南は南相馬まで海岸線をずっと歩かせていただいたのだが、いわき市は伺う機会がなかった。それが今年に入ってから訪問した。
 友だちというのはありがたいもの。昨年秋に郡山で知り合ったグループホーム関連の仲間と気が合い、意気投合し昔からの友人のような気持ちになった。「今度いわきを訪ねたいんです」といったら、「ぜひ来てください! 待っています! 今度はいわきで会いましょう!」と言って分かれた。私は正直者の実行家。3ヶ月も経たないうちに本当に伺った。
 そしたら、海辺にあるグループホームの方や小規模多機能・訪問介護の方などの介護サービスの担当者が待っていてくださった。

墨のような雲と雷・・・ 
 当日の様子をみなさんが口をそろえていうのは以下のようなこと。“その日は晴れていてとても穏やかな日でした。ところが14:46に大きな地震がきた。さて、入居者・利用者を避難させなければと外に出てみたら、驚いてしまったんです! それまで晴れていた空が真っ黒になり、まるで墨を流したような不気味な空になったんです。それがとっても怖かったです! その上雷がなり、この世のものとは思えず、昔映画でみた日本沈没・・・。これで日本はおしまいか・・・。そういう状況でした”
 そうだったんだ・・・。

真っ白い津波
 宮城でも岩手でも津波の話はたくさん聞いたが、その表現はさまざまだった。『真っ黒い壁のようなもの』『真っ黒い波』『瓦礫がこすりあうギーギーいうものすごく高く恐い音とともに』、『覆いかぶさるように』『ジワジワと水かさが増した』など。今回はまた違っていた。海岸から数十メートルしか離れていない認知症対応グループホームでのその時のようすを次のように語ってくれた。
地震が起きて、津波警報が出た。マニュアルでは、上層階への避難となっている。デイサービス24名、グループホーム入居者9名、職員約10名を3階に避難した。
15:15第1波の津波到来、16:02第2波の津波到来。これは大きかった。津波の前の“引き”がすごかった。どこまで海の水が引いていくんだろうというくらい海水が引いた。大潮のときよりもずっと遠くまで水が引いた。それと同時に、どれだけの津波が来るんだろうと不安だった。他の地域に避難することも考えたがやめた。その理由は、車で避難しても渋滞にあう。また認知症の人たちはトイレのこと一つとってもいきなり他の場所ではなじめなくて混乱する可能性がある。もし、津波が3階まで来て飲み込まれたら仕方ない。あきらめてだめなら一緒に・・・と判断せざるを得なかった。
1階は車などすべて流されてしまった。3階に避難して、津波は入居者さんには見えないようにした。しかし、見たいという利用者さんは一緒に見ていた。遠くから、海全体に白い高い波がずっと押し寄せてきた。
怖かった! みんなでのまれて死んでしまうのではないかと思った。また、もっと大きいいのが来るんじゃないかとずっと不安だった。「これで大丈夫なんですか?」とみんなが声を掛け合ったが、誰も答えられなかった。朝まで不安に怯えていた。

地震と津波だけなら立ち上がれるかもしれないが・・・
 マスコミ報道の影響で、いわき市に支援物資が届かなく4日間は、何の支援も届かなかった! 食べ物が届いたのは、3月15日以降 4日間は何もない状態だった。
『原発』の新たな火種が噴出した。どうすればいいか。いつ全体的に避難しなければならないかわからない。いわき市が、安定ヨウ素剤を配り始めたころから不安が増した。見えない被爆で「死」が近いんじゃないかと思った。みんなだめになるのではないかと。

 友人がいった。「宮崎さん、結果的に大きな被害はなかったけれど、大きな被害があったところと同様に心に傷を負っている。同じように苦しんできたし、今も苦しんでいるんですよ」と。

詳しくは、月刊『介護保険情報』(社会保険研究所)3月号(これからの分)を参照してください。