心に突き刺さること ウイグルでのできごと
心に突き刺さること ウイグルでのできごと 2月5日分
日本ウイグル協会からのお知らせの中に、以下のような文章がありました。光景が目に残り、心に突き刺さって私から離れないんです。
ウイグル人にとって忘れられない日が2つあります。
1997年2月5日と2009年7月5日です。
1997年2月5日に東トルキスタンのグルジャ市において不当逮捕に抗議するデモがありました。無実の罪で逮捕されたウイグル青年の釈放を要求し2月5日から1000 人ほどの民衆が参加しました。このデモ隊に対して公安警察、武装警察は過酷な弾圧を加え、多くのデモ参加者を逮捕し、一箇所に集めました。そして厳冬の最中、気温マイナス20 度の状況で彼らに対して放水し、多くのウイグル人を凍死させました。
その後も不当逮捕は続き、多くのウイグル人が拘束され亡くなっていったのです。
しかし、昨年はグルジャ事件を上回る悲惨な事件が起きてしまいました。
2009年6月26日、中国広東省でウイグル人労働者を漢人が襲撃虐殺する事件が起きました。
その事件を受けて7月5日、東トルキスタンのウルムチでも事件の解決を願いウイグル人による平和的な抗議デモが行われました。しかし無差別発砲により多くのウイグル人を射殺し、装甲車でひき殺すなど武力鎮圧でウイグル人が殺害、逮捕されました。
中国政府の発表では192人の死者となっていますが実際には数千人の犠牲者がでていると見られます。
どうして・・・人間が人間に・・・
超高齢の方のかすかな呼吸も大事にしながらターミナルケアを行い、自分の口から食べられないくらい衰弱して死が近づいている人でも残り一日の人生を豊かに送れるように支え、どんな命も少しでも自分らしく自分が望むように生ききるように支援する仕事している。その立場・その人間観から見てみると、上記の光景はなんたることか! と率直に心が痛み、怒りがこみ上げてくる。
この地球上で、人間が人間を大事にしようということが合意になっているのではないのか。人間が人間を残酷に殺すことが大手をふるって許される時代なのか。
どうして人間が人間に平気でマイナス20度に放置し、放水して凍死させられるのか・・・。
「する側」と「される側」
どうしてなのかをずっと考えているところ。その一つは、「する側」と「される側」の論理。私自身でいつも思うことがある。それは「注射」。私は採血や注射など身体に針を刺されることが大嫌いである。いつもひっくり返りそうになる。全身が緊張してある種、極限状態になる。ところが、看護師として患者さんに注射をするときには、全くといっていいほど何も感じない。平気でいくらでも針を刺すことができる。もし毎回、あの刺されるときの感触を思い出していたら、たぶん注射をすることができなくなってしまうと思う。
この論理で、自分をされる側に身を置いて想像してみよう。いじめ・無視・暴力・・・。
これが単なる病気(あるいは病気が原因)で、理由なく「ハンセン病」というだけで、島に、一定区域内に軟禁され、「認知症だから」と手足を縛られ、鍵をかけられ「監禁」されてきた。過去のことではない。
頭ではなく、身をもって「される側」「される場」に!
自分は、かなりの確率で、無意識に「する側」になっている!
もっともっと深く考えよう
上記のウイグルの問題は、たくさんの問題を含んでいる。単純ではない。「政治」「思想」・・・。わからないといわず、自分自身の生き方に、あるいは日本で今起きていることと大いに関係ある。きょうは、「する側」と「される側」のことだけ書いたが、もっともっとみなさんと考えあいたい、考えなければならないと思っている。