愛しき水俣・・・他界
愛しき水俣・・・他界 6月15日分
このところ、親しい知人が二人亡くなった。どちらも50歳代・60歳代と若い。1人は若いときからの同僚の57歳の男性で、2月に肝がんが見つかり6月上旬には亡くなった。あっという間だった。ご家族の話では、癌とわかっても一度も弱音を吐くことなく、自分の人生と向き合い、家族と旅行を楽しみ、大事に時間を過ごしたという。ご家族が悲嘆しきっているのではないかと心配したが、『彼が大事な時間をくれていっしょに過ごすことができたので大丈夫』としゃきっとなさっていた。ターミナルケアを行う側から見て大事な何かの示唆をいただいた気がする。
水俣病の患者さんの訪問看護
私は、2006年5月に、『愛しき水俣に生きるー訪問看護の源から』(春秋社)を出版させていただいた。2006年5月1日が水俣病第一号の方が世に発表されてちょうど50年の記念の日であった。この本は、水俣の看護師・上野恵子さんを主人公として描いた本である。その上野恵子さんが6月11日に他界された。65歳。
私は19歳の看護学生の夏休み(1975年)に水俣共立診療所(現、水俣共立病院)に自主研修に行かせていただいた。そこで私の人生を左右する出会いがいくつかあったが、訪問看護との出会いもここだった。20歳代後半で当時婦長だった上野婦長さんが、「東京から来た学生さん、今から訪問看護にいくんだけれどいっしょについていく?」と声をかけてくれた。「ええっ、訪問看護・・・あまりよくわからないけれど『はい、行きます!』」と自転車で同行した。
水俣病のために寝たきりとなり、隠れるようにして家でひっそりと生きている方を訪問して、リハビリを行い全身の清拭を行い汗だくで看護した。暗い顔だったその方が、顔つきが変わっていくのが手に取るようにわかった。そして私たち学生にこういった。「東京から来た看護婦の卵の学生さん、あなた達は病院の中だけにいてはダメだ。俺らみたいな治らない患者は病院にはいけないしいかない。だけど、上野婦長さんにように家まで来てくれてこうやっていろいろやってもらうと、心が軽くなるんだよ。なんだか負けていられないって気にもなる。そういう看護婦さんになってください」と。私が訪問看護を目指した原点の一つがここにある。
6年間をがんと共に生きて
それから30数年は、細々とつながってはいた。それが2006年1月に上野さんにがんが見つかり、余命数ヶ月かもしれないという状況になった時に上記の本をいっしょなって作ったのだった。水俣という地で水俣病と共に生きる方々と、看護師として、また人間としていっしょに生きてきた上野さんという方を通して描いたものだ。水俣病のこと、水俣病の裁判のこと、公害と闘う住民のこと、そこで支援する医療者・看護師の姿、環境汚染の原点などが非常にわかりやすく書かれていると思う。
上野さんは、その後がんが小さくなり奇跡的に回復し、がんを抱えながらも生き生きと生きてこられた。時には「宮崎さん、今度は肺がんも見つかってね、モグラたたきのようなものよ」などと冗談交じりで話されていた。最後に会ったのは、3年前。そのときには心の中で“もうこれで最後かな”などと思ったが本当にそうなってしまった。
亡くなる3日くらい前に友人から連絡をもらったが、すぐに飛んでいくことができず、何とか伺おうと思っていたのだが、亡くなられた。
新聞を見て驚いたが、医師として水俣病の第一人者である『原田正純氏』が急性骨髄性白血病で他界された。それが、なんと上野恵子さんと同日なのである・・・。
なんだか不思議な縁を実感すると同時に、“寂しい・・・・・”と心から思った。ご冥福をお祈りします。