時間がない、ありすぎる
時間がない、ありすぎる 7月15日分
朝の散歩と公園でのラジオ体操を続けている。7月17日に梅雨が明けさわやかな今朝は、いつもよりもたくさんの人たちが集まった。ざっと数えて130名くらい。その公園の光景は次のよう。大きな音が出るラジオを持参して前に立つ人、毎日決まった場所で体操する人、たばこを加えてベンチに腰掛けてみている人、朝からアルコールを手にしている人、ラジオの音に関係なくジョギングしている人、犬の散歩をしている人、別なスピーカーから太極拳の音楽を流して周囲で太極拳を舞う30人くらいの人、おしゃべりしている人など。
「おはよう、きょうはいい天気だね」
「きょうは何するんだい」
「何もすることがないんだよ。一日どうやって過ごせばいいか・・・」
「何をするにも金がかかってね」
「狭い家に夫婦顔をつき合わせていても息がつまっちゃうよ」
この大集団の年齢構成は、私の見立てでは・・・。
40歳未満 0%
40歳代 5%
50歳代 10%
60歳代 20%
70歳以上 65%
男女比は、6:4で男性が多い。太極拳グループは圧倒的に女性が多い。
近くには、大きな公団があり周囲は住宅街。
「忙しくて、忙しくて・・・」
時々山形の実家に帰る。月山・葉山の沢沿いの山村の生まれの私は、豊かな四季が当たり前の中で育った。新緑は春紅葉というほどにさまざまな色で山全体を覆う。夏は勢いよい緑、秋は橙色中心の五色の紅葉、冬は水墨画の世界。
その山村で母や兄はさくらんぼやぶどう、野菜などを作っている。東京の我が家はほぼ無農薬の有機栽培の母が栽培した野菜を定期的に送ってもらって食事をしている。まったくいくつになっても親頼みの生活をしている。
先日帰省したときに、母(76歳)が、
「忙しくて、忙しくてネコの手も借りたいくらいだよ。庭の草むしりをする暇もなくてぼうぼうになっていてごめんね。きれいな庭を見せたかったのに。ちょっと見に行かないときゅうりもなすも大きくなってしまってね」
「このへんの人は、生涯現役だよ。遊んでいる人なんていないよ。ぼうっとしている暇ないよ」
母も、朝から寝るまで動き回っている。
どう生きても一生は一生
70歳代になって、定年で仕事がなくなりその後どう生きるのか。やることがなくて一日をどう過ごしていいか分からない人と、「忙しくて」という言葉を吐きながら生きる人を見て考えてしまう。特別な人はもちろんいる。80歳でも90歳でも100歳でも忙しく社会的な仕事を続けながら自分の人生を送っている人。
しかし、サラリーマンだった人は、私が朝会うような感覚で生きている人が多いような気がする。なんだかもったいと思ってしまう。できる力(体力・知力)があるのにうまく使うすべがなくぼうっと過ごしている。そのうち要介護になり介護保険・社会保障の対象になっていく・・・。朝の散歩や体操に集まる人はまだいい。身体を大事にしようとか、人とのコミュニケーションを求めている。もっと困るのはどこへも出かけず狭い部屋でアルコール漬けになってしまう“こもりきり族”。
自分なりにtryして、生き生きと目を輝かせて生きようが、テレビ・アルコール漬けでぼーっと生きようが、その人の一生。誰かがどうこういうものでもないことは承知している。だけど・・・ だけど・・・ 考えてしまう。
自分らしく、主体的に、生きる
私は、要介護の方(寝たきり・認知症・がん・・・)の『生きること支援』の仕事をさせていただいてきたこれまでの人生である。今の私の到達点の一つは、「どんな状況・状態になっても、他の人のいうなりではなく、“自分の価値観・考え”をしっかりと持ち、それを大事にし、前向きに生きようという気持ちになれるような支援、そしてそれを実現するための支援」が、支援(看護・介護・ケア)の目標ではないかと思っている。
どうしても大事なことは、本人が自分の力でそのときの自分の状況にきちんと向き合い、身を一歩前に出して何かをしようという主体的に生きる姿勢である。これは要介護云々に関係ない人間みんなの共通の課題であるような気がする。
さて。「することない人生」を時間をもてあまし、身の姿勢で生きている姿にどうしても納得がいかない。それは個人の姿勢・資質にも関係するだろうが、社会全体という大きな視点でも考えなければならないような気がする。
人間が生きることの本質に関係する大事なことを含んでいるとも思う。『孤独』⇔『共に生きる』、『人のせい・社会のせい』⇔『自分のせい』、『与えられた人生を生きる』⇔『自分の人生は自分が創造する』などなど。
鍵は、『脳』にあるかもしれない。