東日本大震災 その9 20km~30kmの苦悩

東日本大震災 その9 20km~30kmの苦悩  5月1日

 福島県の相馬・南相馬を訪問した印象は、宮城・岩手とかなり違っていた。岩手・宮城は津波の被災地が町の中心街だったので行政・商店などさまざまな町の機能が果たせない状態になっているところが多かったが、福島(相馬・南相馬)は、市街地は津波の被害は少なく、地震による倒壊などもほとんど見られないために何事もなかったように見えた。津波で流された沿岸線は「浜の人」が住んでいてかなり被災はしていて瓦礫だらけにはなっていた。

相馬と南相馬
私が訪問した4月14日時点では、相馬と南相馬では様子がかなり違って見えた。
①生活物資
相馬は、スーパーなどでほとんどのものを手に入れることが可能な状態だった。相馬の訪問看護ステーションを3ヶ所訪問したが、建物の被害はそれほどなく、物資の足りないといえば足りないが、何とかなるという状況。
ところが、南相馬は、店やスーパーがしまっていて生活物資を手に入れることが困難で、相馬まで買いに行っているという話しも聞いた。南相馬に向かう途中で「何でもいいので何かほしいものは?」と尋ねたら、「本当に何でもいいんですか! 久しく生野菜を食べていないんです。牛乳もヨーグルトも2~3週間食べていないなあ。ちょっとでいいですから」という状況だった。食べるものは支援物資で運んでくるので、『生存』は可能(何かは食べているが)だが、「普通の食事」にはなっていないようだった。ただ、私たちが電話した方に限った話かもしれないので、あいまいな部分はある。
マスコミ報道で災害物資をトラックの運転手さんたちが運んでくれない地域と報道されたあの地域だ。
②原発との距離から
 南相馬は、「計画的避難地域」と「避難準備地域」とそうでない地域とがあり、市内が三つに分かれる。(私が訪問したときには、まだ20km~30km「屋内待機地域」という指示の時期だった)
 相馬が、避難地域になっていない。気分も含めてかなり違っていたように見えた。相馬の訪問看護師さんの話の中に、何度も「私たちはまだいいんです。南相馬が大変なんです」という言葉を聴いた。

職員は減少
ただ、職員の様子を聞くと、どちらの地域も被害が大きい。職員が病気になり長期病欠になってしまったとか、家が流され遠くに引っ越してしまったとか、子どもの放射線被爆に不安を持ち、引っ越してしまったなど職員の数は一時的かもしれないが減っていた。

南相馬特有の苦悩

 前述したとおり、私が訪問したときには、まだ20km~30km「屋内待機地域」という指示の時期だった。20km圏内には立ち入れないが、屋内待機地域というあいまいな指示のために、住民はどう動いていいのか戸惑っているようだった。30km圏外の避難所に一時的に避難したが、いつまで続くかわからないので家に帰ってきている人、家にこもっていたが外に出始めた人、家は20km圏内だが職場が30kmの人と時間がたつに連れて人はじっとしていないで様子が変化していた。
 このあいまいな「屋内待機」を早くはっきりさせてほしいという声をたくさん聞いたが、それが政府が正式に3つの地域に区分したのは、それからまもなくだった。それが、「計画的避難地域」と「緊急避難準備地域」とそしてそれに該当しない地域。この目に見えない境界線の周辺で暮らす住民は? そしてそこに住む病人や要介護の方のご支援をする訪問介護・訪問看護・デイサービス・往診などがどう活動すればいいのか。あるいは逆に活動をしてはいけないのか。このことで実際に現場の職員さんたちは、他の地域にはない混乱・焦燥・苦悩があるように見えました。

 その内容は、次回。

      5月1日記