東日本大震災 その6 カルテが50日ぶりに発見
東日本大震災 その6 カルテが50日ぶりに発見 4月28日
追って詳しく書きますが、福島と宮城・岩手は、かなり事情が違うと思いました。その一つは、宮城・岩手は、町が丸ごと津波の被害を受けていることです。(福島はちょっと事情が違うように見えました) その町で訪問看護ステーションを立ち上げ、実践してきた訪問看護師たちは、事務所を流され、カルテも契約書も何もかも失いました。しかし、しかしです。新しい事務所を借り、事業を再開しているのです。
3ヶ所の訪問看護ステーションの事務所を流された友人の訪問看護師
岩手県の訪問看護ステーション協議会の会長をされていた齊藤さん(男性)は、さまざまな状況から2005年に株式会社を立ち上げ、まず釜石にあゆみ訪問看護ステーションを開設しました。その後、山田町と陸前高田にも開設し、3ヶ所の訪問看護ステーションを運営していました。
ところが、今回の地震と津波で3ヶ所とも津波に流され、事務所を失ってしまいました。
「齊藤さん、大丈夫? どうするの?」
「元気ですよ。今は釜石市のさまざまなことをホボランテイアで手伝っていますよ。ステーションはその内に再開しますよ」
「どうやって、再開するの? お金はあるの?」
「お金はないけど、銀行が貸してくれるって言ってくれたんで何とかなるでしょう」
「そうなの? 大丈夫?」
「釜石は町(行政)といっしょになっていろいろなことをやっているんだけれど、全部がそうとは限らなくてね。大槌町は、町長も津波で死亡したところだけど、僕たちがボランテイアで色々なことをやるから、限られた看護職で力をあわせてやっていこうと申し出たんだけど、なかなかうまくいかないようなんですよ」
「そうなの・・・」
事務所を再開した
今回の地震・津波で最も被害が大きい訪問看護ステーションは、この齋藤さんのところではないかと思うのに、悲壮感なく、自らもボランテイアをしながら自分の事業所の再開を準備している。
私が齊藤さんのところを訪問したのは、4月19日。久しぶりの再開にハグハグしながら、「生きていてよかった!」というと、「僕はほとんど死んでいたはずなんです。ところが、その日、利用者さんから訪問時間の変更依頼があり、それで助かったんです」という。
山田町に1ヶ所しかない訪問看護ステーション。流されたが、道の駅の敷地内の魚の集積所だったところ?を借りて事務所を立ち上げた! そこの所長(管理者)さんも、「とにかく、ボツボツでも再開しなければね。何とかなりますよ」と長靴で訪問から帰ってきた。
釜石の事務所も、被災しない場所の事務所を何とか借りて再開しかかっていた。陸前高田のステーションは、少し様子を見てから再開しようと思っていたんだけれど、職員のみんなが、早く事務所を探して再開しようと集まってくれているので、始めるという。
奇跡的にカルテが見つかった!
「宮崎さん、実はきょうすごいことがあったんですよ」
「へーい、何?」
「あのね・・・」
と、自動車で山田町の被災後の町を詳しく案内してくれた斉藤さんが、車を止めたのが、瓦礫の山の向こうに、一軒家の屋根だけが見えるところ。
「宮崎さん、あれが、僕のステーションの事務所の2階建ての一軒家の屋根なんですよ。もとあった場所は、ここから200m離れたところ。元の場所には何もなくなっていたのであきらめていたんですが、きょう連絡がきたんです。うちの家の2階部分らしいものが離れた場所で見つかったと。それで行ってみたら、本当にうちのステーションの2階部分だったんです」
「へえい、すごいね。今になって見つかったんだね」
「すごいのはね、その2階部分にカルテを保管してあったのだけど、それが泥まみれになってはいるけれど、そのまま見つかったんですよ! それで、それを今もって来て、これなんですよ」
と、泥まみれではあるが、きちんと読めるカルテの山を見せてくれた。すごい!! 瓦礫の山はまだ手付かず状態。何が残っているかわからない。撤去作業も、遺体の捜索と同時並行で行っているので、一向に進まないとのこと。
それにしても、約50日ぶりで、カルテが見つかるとは・・・。
齊藤さんのことは、まだ続きます。
まだまだ続きます。町の様子や、介護・看護サービスなどのついても順次書いていきます。 間をおかないで書いていきます。 4月28日記