立川談志のことば
立川談志のことば 12月15日分
会議などでふと周囲を見渡すと私が最年長だなどということが多くなっている。こんなはずではないと考え込む。私は10歳年上の団塊の世代の皆さんと一緒に仕事をすることが多く、その方々が定年を迎え、独特の生き方に足を突っ込んでいらっしゃる。その人の視線や評価を気にしてがんばってきたのに、急に病気で亡くなったり、覇気を感じない目つきで生きていらしたり、いわゆる第一線を退くというのであろうか。
義父が85歳ころの言葉を思い出す。「あのなあ、電車に乗ってふとあたりを見渡すと自分が一番の年配者なんだよ。いったいいつからこうなってしまったんだろう。自分はあまり年寄りだと思っていないんだけれど、客観的にはそういうことらしい。自分はそんなに生きたんだろうか・・・。いつ年寄りになったんだろうか・・・。年をとったかどうかわからなく考えているうちに人生終わってしまうよ・・・」その義父もあっという間にこの世を去った。
あせりはしないけれどどう生きよう・・・
3月11日以降、ふと立ち止まり、よくそんなことを考えこれからの自分の生き方を思案してしまう。あせっているつもりはないが、『さて、さて、・・・』と。三人の息子たちもそれぞれ自分自身の道を歩み、来年の3月で仕送りほぼ終了。『さて、さて・・・』
こんな気持ちになっていると、普段は自分では反応しない様々なことに反応している自分に気づく。
談志のことば
私は、談志が大好きだった。天才といわれたそうで、一度覚えた落語は何も見ないでお話できるとか。他の人にはない才能があり、そのお弟子さんの落語や独演会にも喜んで観に行かせていただいた。
その談志さんが亡くなった。世の中は非情なことに、しゃべることが命の人の喉を奪う。喉頭がんだった。手術を拒否し自分の声で最後までしゃべることを護ったとか・・・。何かで読んだか、見たか・・・、私はすごく印象に残った言葉がある。
『落語はね、人間の業の肯定なんだよ』
そういえば、そうだなあ。落語に登場する人は、どこかちょっとぼんやりしたり抜けていたり、決してできがいいわけではない。だけどなんだか人間味があり、人間同士の許しあい・認め合い・かばいあいがある。一見悪そうに見える人もどこかとぼけていて憎めない。
“人間なんてそんなに立派じゃない。みんな不出来なところがあり、どこか冷たいところがあり、ずるいところがある。でもそうなんだからそれでいいじゃないか。いい子ぶらないで、聖人君子ぶらないで正直に自分を出し合っていいんだよ”
そんなメッセージを発してくれているような気がする。そうか、『人間の業の肯定・・・』か。私に表現できない言葉だなあ・・・。
なんだか、ほっとする。本物の人だと思う談志が亡くなって無性にさびしい。DVDを買ってじっくり何度も観てみよう。