路上生活者の町が福祉のまち
路上生活者の町が福祉のまち 2014年12月25日分
前回に続いて本の紹介をしよう。
『人は必ず老いる。その時誰がケアするのか』本田徹著、角川学芸出版 2014.9.25
本田徹先生のこと
本田先生のうわさは時々お聞きしていて、「すごい先生よ」「とてもいい先生よ」「山谷に係っている先生よ」などいう声であった。一度お会いしたのは、何かのシンポジウムで隣に座ったシンポジスト。どんな先生なのかな? 何がすごいのかなあ?と気にしていた。
ある日、書評依頼があり、それがこの本で、先生自身からもメールをいただいた。そしてじっくりと読ませていただいた。私の書評は、看護系月刊誌「看護実践の科学」に掲載されている。
くすぐったい思い
真っ先に感じたのは、「私もこういうことを考えていたように思う。それを本田先生は、志を貫いて継続して実践し、この本ではとても適した言葉で表現しているなあ」ということだった。別な言い方をすると、「自分の中の奥深いところの原点をくすぐられる本」。どうして看護学校に入学したのか、どうして下町の小さな病院に就職したのか、思い起こしてみると、「社会的弱者と呼ばれる人の側に立って」考え続けたいし、何か役立つことを実践したいという思いが大きかった。永遠の課題のように見えた「路上生活者」も視野にはあったが、もう少し普遍的な課題である『老人問題』や誰もやっていない『訪問看護』などに足を入れようとしたような気がする。
先生の言葉の端々や実践に、自分自身を振り返り 押しつけの医療や介護になっていないか、おごった自分になっていないかなど、再度、自分の立ち位置を確認するきっかけになるような気がした。
かかわる人物像がとてもいい
この本の読みごたえは、登場する人間像である。路上生活者、支援する団体の特徴ある人々、訪問看護師、そして本田先生自身の人物像が正直に描写されている。それぞれのみなさんの生き様が心に残る。特に路上生活者になった方々が、特別な人ではなく、ちょっと人とのコミュニケーションが苦手であるとかタイミングの悪さ・病気などで誰でもがなりうることを示している。どの人も気負わずに真正面に向かい合っているようすがすがすがしい。
「孤族」が「ゆるいつながり族」に
「孤族とは、世間や身内とのつながりが切れて、ただ一人で暮らす人のこと。今、孤族になった独居老人がいざという時、誰に助けを求めるか、誰にケアをしてもらえるのかという不安に直面している」という。山谷だけでなく、日本中どこにいても「孤族」になってしまい同様の不安を持っている。
お金持ちでも、栄誉ある賢人でも「孤族」、つまり物理的にも精神的も「孤独」との付き合いが待っており、これからの社会の大きな課題だろう。
山谷の地域が、「孤族」⇒「ゆるいつながり族」になっているという。というよりは、みんなの力でそうしてきたということだろう。
山谷という町
数年前、20数年ぶりにこの街を訪れた。この本に出てくる訪問看護ステーションコスモスを訪ねてのことだった。山谷がどんなふうに変化したのか興味津々だった。確かに路上で生活している人がいたしそれもかなり高齢化しているのが分かった。だけど、案内してくれる訪問看護師さんに連れられてその方がたに声をかけ、簡易宿泊所に宿泊している方々に会い、またNPO法人のサポート団体の方や事務所を訪れてみて何だかあったかいものを感じた。殺伐とした最底辺の人たちという印象ではなかった。サポートを受ける方と提供する側の境がないというのか、とてもいい距離感というのか、べったりと濃厚な人間関係ではない“いい感じ”なのである。本田先生がいうように『路上生活者の町が福祉のまち』になっているんだと思う。
“何だかほっとした”そんな思いだった。