音楽教育について

音楽教育について      9月15日分

 早乙女勝元さんといえば、「東京大空襲」についての第一人者の作家の方です。私が所属する医療法人健和会関連の友の会という市民の会の会長を長くなさってくださっています。私は個人的にも家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。
6月末に、突然、奥様の早乙女直枝さんが急死されました。朝、普通にお出かけになった直枝さんが、出先で夜の会合で倒れてそのまま息が絶えた。心筋梗塞であっという間の死だったようです。68歳です。

偲ぶ会に出席して
 私は亡くなる一週間前に電話で元気にお話をしたのでした。「ええっ、・・・」と驚きでした。早乙女直枝さんは、長年音楽教師として活躍してこられた方です。
先日、直枝先生を偲ぶ会が開催されました。
 私は、直枝先生との交流はそれほど多くはなかったのですが、その会に出席していろいろと考えさせられることがありました。それは、正枝先生が、『音楽教育』と『平和運動』に人生をかけて生きてこられたということでした。
 私の周囲には、平和問題に熱心に取り組んでいる方は多数いらっしゃいますが、『音楽教育』に携わっている人は多くありません。小学校や中学校の音楽教育を担当している教師の方々が「音楽教育の会」を作り、自主的に交流・研究してきた会のようです。

『音楽教育』が人間に及ぼすこと
 そもそも「音楽」とは、「音を楽しむ」こと。一個の生き物として、「音」を楽しむことが音楽。私は、音痴で声も大きく出すことができず、うまく歌うこともできず、さまざまな音や楽器を聞き分ける耳も持たない、いわば「音楽音痴」。私がどうしてこうなったかを分析しても仕方がないのでやめるが、幼稚園・小学校・中学校時代の音楽の授業は関係ないのだろうか。人生の初期に「教育」として、音と人間について学ぶ機会を日本では週1~2回設けている。そのときにどんなふうに音楽と接するかの教育を受けるが、実はこれが大事なことなのではないでしょうか。
 つまり、学校の音楽の先生の役割が極めて大きいということです。
思い起こせば、私の中学時代の音楽の先生がやったことは、授業の最初は必ず目を瞑って「バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、・・・」と音楽年表に載っている音楽家の名前を30人くらい暗記させられることでした。そして、毎回ベートーベンの「運命」のレコードを目を瞑ったまま鑑賞することです。それがどうなのかいまだにわかりません。

楽器で自己紹介
 私がおもしろい音楽教育だなあと思ったのは、息子が中学に入ったときのはじめの授業のときのことです。自己紹介が、何でもいいから楽器を使って1曲演奏するようにということだったのです。私の息子は、ピアノでビートルズの「ヘイ・ジュドー」を弾いたのですが、カスタネットの人もいれば、太鼓の人もいれば、小学生時代のリコーダーやハーモニカを弾く人もいれば、自分の体を楽器と見立て歌を歌う人も。ドラムをたたく人も。それぞれが親しんできた楽器をもう一度見直し、それを使って自己表現をする機会を作ったようでした。とても面白い企画だなあと思いました。

何歳からでも「音を楽しめる」
 高齢になっても、新たに音を楽しむことができる。歌・楽器をもとに踊ることもできる。人生を豊かに生きるのになくてはならないものの一つでしょう。その付き合い方・楽しみ方を、学校教育で触れる機会をどう作るか。
 直枝先生たちは、研究授業などを旺盛にやり、発想豊かに子どもたちに教育してきたのだそうです。
 現在の教育は、受験に関係のある国語・数学・英語・社会・・にばかり目が行き、音楽や絵・図画・工作、そして体育、ましてや保健(性教育や人間教育にとても大事)に重きを置かない傾向があります。競争社会を生き抜くには、受験科目に強くなければいけないかもしれませんが、自分自身の人生を豊かに生き、周囲の人と和を保ち大事にしあえる関係性で生きていくには、音楽・絵・スポーツ・健康など多様な力が実は大事なのではないでしょうか。

 全国一斉学力テストの結果公表や毎年行う必要があるかなどマスコミをにぎわせていますが、何か大事なことうを忘れてはいないのでしょうか。

  『無』から『有』は生まれない。小さくても子どもの教育の段階から、きらりと光る『有』を体に、頭に入るような教育であってほしいです。

 その音楽教育に生涯をかけてきた早乙女直枝先生の功績に心からの拍手をし、ご冥福をお祈りいたします。