東日本大震災 その12 病院の4階まで津波が・・・ 5月10日

 宮城県訪問看護ステーション協議会の役員の訪問看護師さんたちと県北の訪問看護ステーションに支援物資を運んでいるときのこと。石巻では海岸線の方には行く時間がなく少々片付き始めた町(とはいっても瓦礫の山はあったが)をあとにして三陸道を北上し南三陸町に入った。まだ海は全く見えない山の坂道を降りている時に、突然見慣れない光景が目に入った。川沿いの周辺が小さなボロボロになった木が散乱してゴミも散らばっている。山の斜面の木に下着や洋服のちぎれた端切れが引っかかっている。「これは何だろう」と一瞬首を傾げたが、すぐにわかった。『そうだ、津波の跡だ』と。山の中と見えるその地に津波が来たんだ。その爪あとがまざまざと見えた。はじめてみる光景に車に乗っていた3人は声を失った。

何もない瓦礫の広っぱに5階建ての建物が
 無言で車を走らせていったところ、遠くに海が見える広い場所に差し掛かった。たぶん家や会社や作業場所などの建物がたくさんあっただろうと予測されるその町に全く建物らしきものが見えない。木・板・鉄くずが散乱しているだけ。
 ところが、遠くから5階建ての建物が見えた。見たことのある建物だった。近くにいってやっとわかった! 何と、震災当日・翌日などにテレビでよく放映された『志津川病院』のようなのだ。病院の屋上で手を振って救助を求めていたあの病院なのだ! 町の庁舎も津波に流され、志津川(南三陸町)の町が壊滅的だといわれている場所だ。確かにすごい! 人気はなく、瓦礫の山の原っぱ状態だ。

高台のプレハブに
 海に突き当たったところを左折し丘を登っていったところに、町立の新しくきれいなスポーツセンターが見えた。そこが大避難所となっている。その周辺に各国からの支援の基地があった。その一画にいくつかのプレハブがあった。そこが仮の町の庁舎になっていて、私たちが目指す町立の訪問看護ステーションの事務所もその中にあった。
「全国訪問看護事業協会と宮城県訪問看護ステーション協議会のものです」と、あいさつし訪問看護師さんを訪ねると出てきて下さった。ヘルパーもケアマネも町の介護保険課もいっしょの事務所だった。

5階から恐る恐る津波が来るのを見ていた
 地震・津波があったその時間帯は訪問看護師たちは利用者宅の訪問をしていたという。大きな地震があったので全員急いで車を飛ばしステーションに戻った。訪問看護ステーションの事務所は、町立志津川病院(さきほど見てきた)の5階にあった。地震などの災害があったときの約束事として、とにかくステーションに急いで戻ることになっていたという。それで全員が5階の事務所に戻った。そのときには病院の中は入院患者や職員を高いところ・屋上にみんなで誘導・移送していたという。
 その時に遠くの海から黒い壁のような津波が辺り全部を飲み込み、病院の4階まで飲み込んでしまった。5階にいる自分たちも“もうだめだ”と思ったと。入院中の患者さんも仲間の職員も何人も波にのまれて息絶えた。

『がんばろう! 南三陸町!』の合言葉
 多くの死者・行方不明者を出した南三陸町。訪問看護の対象者も●割の利用者が被災して対象から外れている。訪問看護師の方も家が流され、『実家の気仙沼からやっと通っているんです』と、小さな声で話してくださった。
 お話を聞いているその周囲を忙しそうに歩き回る人がたくさんいた。それはたぶん町役場の方、関係者、支援者。みなさんの胸にはワッペン?をピン留めしてあった。『がんばろう! 南三陸町!』というものだった。みなさんが心を奮えたたせているように見えた。

            5月10日記